cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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002 鷲は土地を所有するか?

 ぼくはもう一冊なんとか『THE FOLD-OUT ATLAS OF THE HUMAN BODY』を探し出して、大辻清司先生にプレゼントしたいと思った。
 東京にいくたびに、古書店を何度もめぐって、飛び出す人体解剖図の本を探した。
 村上春樹さんの『村上朝日堂』のなかの「本の話(2)」という文章に、神田にある洋書を専門に扱う古書店がでてくる。
 《この本屋の良いところはミソもクソもごったまぜになっていて、珍品もゴミみたいな本も値段が一律になっている。ただこの店の主人が手製の腰巻に書きつける日本語のタイトルだけはあまり信用しないほうがいいみたいである。THE EAGLE HAS LANDED(鷲は舞い下りた)というタイトルが「鷲は土地を所有していた」となっていた》
 この本屋がどこなのか見当がつく。「松村書店」だと思う。
 神田に行ったら必ずのぞく古本屋、それがここだった。棚に並んだぜんぶの本に縦に黄色い腰巻き(オビ)がついている。怪しい日本語のタイトルと驚くような安い値段がついている。欲しかった本を何度もここで安く手に入れた。松村書店のおやじは、画集などの美術の本には多少こだわりがあったけれど、「デザインの本」にまるで頓着しなかった。
 いまの神田の古書店はつまらない。店主はネットで簡単に相場を調べて、ほんとうの価値もわからないのに実につまらない真っ当な価格をつける。もうあの頃のようにわくわくすることはなくなった。
 いま唯一、お宝を見つけた気分になれるのは、神田小川町にあるブックスブラザース源喜堂書店の本棚だけだ。あっ!ここも腰巻きがついている(笑)。
 ついに松村書店で『THE FOLD-OUT ATLAS OF THE HUMAN BODY』を見つけた。しかも安い値段で。
 先生にこれを渡したらきっと喜んでくれるだろうな、つくばへの帰りのバスのなかでぼくはなんだか幸せな気分だった。
先生はニコニコしながら受け取ってくださった。
 何日か過ぎたある日、先生の研究室に呼ばれた。「この前のお礼に、守先くんにぼくからも本をプレゼントします、このシリーズの本が美しいと思っています。」
 先生から2冊の本をいただいた。《Die bibliophilen Taschenbücher 》というポケットサイズの叢書で、ドルトムントにあるハーレンベルクという出版社からでているシリーズのなかの2冊だ。それはグーテンベルグの42行聖書とエリザベス・ブラックウェルの植物画集の本だった。
 先生は、ぼくが本が好きで文字が好きだということをちゃんとわかっていた。

守先正

62年兵庫県生まれ。筑波大学芸術専門学群卒業、筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了。花王株式会社(作成部)、筑波大学芸術学系助手、鈴木成一デザイン室を経て、96年モリサキデザイン設立,現在に至る。
池澤夏樹の著作では、『未来圏からの風』『この世界のぜんぶ』『異国の客』『セーヌの川辺』『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』などを手がける。
https://www.facebook.com/morisakidesign/