039 緯度と夜、EU憲法、フロランスとフセインの帰還 その4
この連載の中で、ぼくはなるべく日本とフランスの比較をするまいと思っている。
見聞をそのまま伝え、その価値についてはあまり踏み込まないようにしている。
この町でも高校生が教育制度の改革に反対してデモをしていた。そこまでは書くけれども、日本の高校生がなぜデモをしないかは論じない(ちなみに、大学受験資格を判定する制度の改革を目指したいわゆるフィヨン法の施行はひとまず棚上げされた)。
しかし、ここではどうしても去年の4月、日本人のNGO活動家3名が武装勢力に拘束されたいわゆる人質事件と、今回のフロランスとフセインの場合を比べないわけにはいかない。
高遠さんと郡山さん、今井さんは拘束された。政府は有効な手を打つことができず、NGOのくせに勝手な活動をするなと言わんばかりに非難した。ジャーナリズムは3人を支援しなかった(この方針について政府とマスコミの間で早い段階で密約が成立していたと「週刊現代」は報じた)。
3人を殺させなかったのは仲間のNGOであり、彼らの国際的な連帯だった。
高遠さんたちがブッシュ政権や日本政府の手先ではなくイラクの人々の友人であることを必死で伝えたのはNGOのネットワークだった。
その結果、3人は無事に帰ってきた。
あの時に日本の社会が全体として3人を支援したとはとても言えない。
帰国した高遠さんたちは猛烈な「バッシング」に襲われた。
bashというのは「〈人・物を〉(壊れたり、傷つくほど)強打する、乱打する、打ちのめす」という意味である(「ランダムハウス英和辞典」)。
日本語ならばbashingは「ぶったたき」という感じの強い言葉だ。
この件に関してぼくはあの時に意見を述べたからここでは繰り返さない。
参照:「パンドラの時代ーーー009 誘拐事件の一か月後に」
http://www.impala.jp/pandora/index.html
しかし、あの事件を機に日本の社会に対するぼくの見かたが変わったことは、1年以上を経た今になって振り返ってみて、改めて思う。
アメリカ合衆国でブッシュ政権と戦っている人は少なくないから、アメリカは平和の敵と言ってしまってはいけない。同じように日本人をひとくくりに日本人とまとめてしまってはいけない。
そうは思うものの、あの時のあのバッシングは衝撃だったのだ。
敢えて言えば、昔から気が合って親しいと思っていた友人がいきなり暴力的になって、子供たちが安全に学校に行けるよう交通整理をしているボランティアの母親たちに殴りかかるのを目撃したかのようだった。
その時に友人が口走ったのは「警官でもないのに、偉そうに車なんか停めるな」ということだ。
こういう比喩には無理がある。それはわかっている。それでも、いきなり暴力的になった友人というところは的はずれではない。この友人とは今後どう付き合っていけばいいのだろう。
ブッシュ大統領がイラクを攻撃した時にアメリカに対して感じたのと同じ当惑を、あの時ぼくは日本に対して感じた。
なにしろ自分の国だから、事態は深刻なのだ。
アメリカにいる反ブッシュ派の人々の思いがよくわかった。
先日のカンヌ映画祭に日本から小林政広監督の「バッシング」という作品が出品された。
ぼくはこの映画を見ていないから内容に触れることはできないのだが、高遠さんをモデルにしたとおぼしいこの映画に対して、なぜ彼らがバッシングされたのかがわからないというのが各国のジャーナリストたちの反応だった。
映画は事件の被害者を描いている。だが問題は加害者の側ではないのか。
「自己責任」という巧妙なキャッチフレーズに乗って弱者を叩いた動きの方ではないのか。
小林監督は「非難された女性の感情と内面を通じて、弱い者をたたく社会を表現したかった」と語ったそうだが、それはとてもむずかしいことだとぼくは思う。まずスタート地点の選択が違う。
政府やマスコミにとって大衆はまずもって操作の対象なのだろう。
人質事件に際して日本の政府とマスコミは協力して3人を見棄てる方針を選び、そちらへ大衆を誘導した。
フランスのジャーナリズムは政府に抗して人質を支援するキャンペーンを展開し、大衆の支持を得た。どこが違ったのか。
人質の性格を見ると、NGOの活動家とジャーナリストはどちらも民間の立場であって、基本的には中立。NGOはむしろ積極的にイラク寄りと言えるだろう。
いずれにしてもイラクのレジスタンス勢力が敵と見なす公然たる理由はない。
高遠さんたちもフロランスとフセインも、軍人や傭兵や侵略国の外務官僚でもなかった。
支援に投入された精力を考えると、これはフロランスとフセインの方が圧倒的に多かった。
リベラシオン紙はもちろん、フランスのメディア全体が2人を同僚と見なし、救出に力を尽くした。
大衆がそれに呼応して立ち上がり、政府は追随せざるを得なくなった。
日本ではマスコミが政府の方針を受け入れて早々と高遠さんたちを見離した。
救出運動が盛り上がらなかった理由はこれで説明できるかもしれない。
しかしその後でなぜあのバッシングが起こったのか。
これはまた別の大きな問題で、深刻なのはこちらの方だ。
敢えて分析してみれば、ジャーナリストならばいかに危険を冒すことになっても大衆はそれを職業に付随するものと見なす。尊敬はするけれど、自分には無縁な世界の話。
市民ボランティアの場合は、原理的には門戸は誰にも開かれている。
自分たちにも、その意思があれば、できないはずのことではない。
しかし普通の人はそれをしないし、しないことが実は負い目になる。
活動家と大衆はいわば市民という同じ地平に立つ者であって、だから彼らに共感するか反発するか、分かれ目は微妙なのだ。
思想としては国際ボランティア活動の意義を認めるのと否定するのとでは正反対だけれども、感情論でいえばこの二つの間にさほどの距離はない。
ガンジス河とインダス河のように、分水嶺を隔てて源流はすぐ近くにある。
肯定の側は尊敬と共感だが、否定の側には嫉妬という心の動きが加わる。
本来ならば嫉妬など私的領域でのみ機能するはずなのに、インターネットはそれをあっさりと公の領域にまで広げ、連鎖反応を呼び覚ます。
一人に向かって多くが石を投げる。
それでも、それにしても、なぜなのだろうと考え込む。
日本の社会の底の方に何か巨大な負のエネルギーのようなものがわだかまっていて、拘束された3人と政府とマスコミはそれを目覚めさせた。
とても不気味で、おぞましいもの、カジュアルなファシズムのようなもの。日本という閉鎖空間は深いところで病んでいるように思われる。
人でも国でも、大事なのは敵を作ることではなく友人を作ることだ。
フロランスとフセインが解放されたことでフランスはイラクに、あるいはむしろイラクがフランスに、多くの友人を得た。
今の日本にはアメリカ以外に友人がいない。
中国とも韓国とも不仲になってしまった。
サマワに行っている自衛隊は本当にイラクに友人を作っているのだろうか。
<緯度と夜、EU憲法、フロランスとフセインの帰還 おわり>
(池澤夏樹 執筆:2005‐06‐25)
*「異国の客」は『すばる』(集英社)に同時連載しています。
http://subaru.shueisha.co.jp/
発行 impala :
07:31 AM
| コメント
(0)