July 10, 2005

036 緯度と夜、EU憲法、フロランスとフセインの帰還 その1

 夏至が近づくにつれて日が長くなっている。
 夜は10時を過ぎてもまだ明るい。
 朝は4時過ぎにはもう明るくなりはじめる。

 昔、英語の初学の頃、eveningとnightの区別がよくわからなかった。
 寝るのがnightでそれまでがeveningだというけれど、しかしeveningは夕方でもある。フランス語のsoirとnuitの関係も同じ。
 なぜ夕方がそんなに長いのだろう。
 「夕方」というのは日が沈む短い間のことで、その後は「夜」というのがぼくの感覚だった。

 日本語にはもう一つ、「晩」という言葉がある。
 こちらも「夜」との間に区別はないと思っていた。
 広辞苑はこれを「ゆうべ。ひぐれ。宵。日没後、人がまだ寝ずにいるような夜の初めの方」と定義している。これならばまさにeveningだ。
 とはいうものの、晩餐や晩鐘などと熟語にする時はともかく、晩の一字を夜と区別して使い分けるということはないのではないか。
 「晩」が終わって「夜」になったとは言わない。「晩」は音読みだし、日本古来の言葉ではないようだ。

 フランスに暮らして夏をむかえて、soirという言葉の意味がようやくわかった。
 昼である部分はたしかに終わった。仕事は済み、ゆっくりと食事も終えて、さて空を見上げるとまだまだ明るい。
 太陽は沈んでいないのだから、これは夜ではない。
 夕べと呼ぶことにすれば、なんとかsoirの感じになる(ただし、広辞苑の「夕べ」は「日が暮れて夜が始まろうとする頃。ゆうがた」だから、もっとずっと短い感じなのだが)。

 イギリス人の友人に聞いたら、eveningというのは一定の時間帯というよりむしろ時間の過ごしかた、昼間が終わってから何かすることという意味合いが強いと言った。科学より生活感の言葉。

 昔、よく南洋に行っていた頃、あちらでは黄昏(たそがれ)が短いことを知った。日が沈むとすぐに暗くなる。
 緯度が低いところでは太陽が垂直に沈んで、だからあっという間に闇が来る。
 水平線(地平線)の下何度まで太陽が下がったかに応じて、薄明には市民薄明(6度)、航海薄明(12度)、天文薄明(18度)と3つある。
 灯火なしで屋外活動ができるのが市民薄明。明るい星と水平線が共に見えるのが航海薄明。太陽光の影響が星明かりより弱くなるのが天文薄明。
 夕べが長いなと実感するのは市民薄明の間だろうか。

 低緯度地方ではこの3段階を太陽が真っ逆さまに駆け下りる。計算によれば最短で1時間12分。
 それに対して緯度の高いところでは太陽はこの3段階を斜めにゆっくりと降りていって、夏ならば途中からまた戻ってくる。
 市民薄明のまま朝を迎えるのが実感としての白夜なのだろう。
 夏至の日のストックホルム(北緯59度)では市民薄明の終りが午後10時50分、翌朝の市民薄明の始まりは午前1時10分だそうだ。
 その間わずか2時間20分。
 もっと北に行けば夜と朝の市民薄明がつながってしまう。
 更に北に進んで北緯67・5度を越えると、深夜にも太陽が沈まなくなる。太陽は低迷し、地平線のすぐ上を1日かけてほとんど水平に1周するようになる。
 このフォンテーヌブローでも今の時期は天文薄明が深夜から早朝へつながっていて、真の闇はない。

 市民薄明、航海薄明、天文薄明。
 こういう天文用語は科学と人間の接点のようで楽しい。
 なかなか暗くならない空を見て、そういうとりとめもないことを考える。
 水平線と地平線は西欧のhorizonの訳として作られた言葉だろうが、水と地と二語に分かれているところが使いにくい。
 自分がどこに立っているかで言葉を選ばなければならない。
 宮澤賢治の詩に天末線という言葉があって、これは地面の極みや海の極みではなく、頭上の空の果てという方向であの境界線を定義したものだ。
 なかなかいい言葉だと思うけれど、他に用例を知らないし、普通の辞書にもない。 『宮澤賢治語彙辞典』ではこれをskylineの訳語としている。

 子供のころ、夕食の後でもよく遊んだことをここに来て思い出した。
 ぼくが生まれて育ったのは北海道の帯広で、北緯43度に当たる。
 日本国内としてはずいぶん北にあって、だから夏の夕方の長さもフランスに近い。夕食の後で遊ぶ時間はあった。
 ちなみに今ぼくが住むフォンテーヌブローは北緯49度。

 今の季節、ここの緯度をよく感じさせるのは、真夜中の空だ。
 午前3時くらいに起きると、北向きの窓の正面に北斗七星が堂々とかかっている。これまでこんな風にこの星座を見ることはなかった。
 長く住んだ東京は空が狭くて白けていて、そもそも星など見えなかった。
 その後で住んだ沖縄は緯度が低く、おまけにぼくの家は南向きだったので、北斗七星は視野に入らなかった。

 ここだとちょうど見やすい高さにあって、北極星を辿るのも簡単。
 柄杓の先の2つの星を延長して5倍分のところで孤高の光を放っている。
 あの位置に北のしるべとして明るい星があったことが大事だけれど、デザインとして見るとその周囲に余計な星がないことも大事。
 北斗七星とカシオペイアのWが対称の位置に侍っていて、まるで本尊と脇侍のように見える。脇侍の方が派手なのが却っていい。

 午前3時の星を見ながら、昔読んだ詩の一節を思い出した――

 北の座を示すしるべは乱れ
 ここよりは人知らぬ海の道
 韻律はかなしい星に生れ
 象(かたち)はあこがれる未来の位置
                      (「詩法」 福永武彦)


 一年近くここで暮らして思うのは、湿度が低いことの効果だ。ともかく乾いている。
 使ったバスタオルをそのまま掛けておくと、やがてぱりぱりになっている。あまり神経質にならなければ翌日また使える。
 洗った皿はしばらく放置すれば乾く。
 逆に、バゲットは何かで包んでおかないと堅く乾いて食べるのに苦労する。まるで軽い棍棒だ。
 これを防ぐには、布でくるむか紙の袋に入れておくというのが正解。

 台所まわりで言えば、雑巾が匂わない(上品な話題とは言えないけれど、ほんとの話)。
 日本では雑巾は放置しておくとやがて匂いを放つようになる。
 適度の水分と適温を得て雑菌がわらわらと繁殖しているのが目に見えるようだ。
 だからまめに洗ったり、日に干して日光消毒をしたり、ずいぶん気を遣うことになる。その努力がここでは要らない。
 もちろん洗うけれど、それは雑巾が義務としてぬぐい取った汚れを落とすためであってそれ以上ではない。

 ぼくはここ以上に乾いた土地も知っている。
 イランに行った時に書いたことを読み返してみた――「高原の沙漠。空は黒に近いほど青く、日射しは強く、風は熱風。休憩の時に手を洗うと、ハンカチを出す前に手は乾いている。唾を吐くと、唾は地面に届く前に蒸発するとか、立ち小便をすると、地面に届く前に……というのは嘘だが、そう言いたくなるほどだ。湿度という言葉を捨てて乾度と呼んだらどうかと考える。みんな一日中ずっとお茶やら水やらを飲んで過ごす」(『パレオマニア』)。

 フランスはそれほどは乾燥していない。あのひりひりした感覚はない。
 それでもこの地で生まれて育った者には、日本の湿潤の感じは想像できないだろうと思う。世の中には体験しないとわからないことがある。
 湿度と暑さのセット。ねっとりとかじっとりという語感。石を覆う苔。
万物が放つ湿った匂い。そこに育つものは別の文化ということになる。

 昔、どこかで出会って話したアメリカ人が、梅雨の時期を京都で過ごしたと言った。
 何がいちばん印象的だったと聞くと、彼は一言でこの体験を要約した――「かび!」。
 彼がそこだけ日本語で言ったところがあわれだった。
<つづく>

(池澤夏樹 執筆:2005-06-25)

*「異国の客」は『すばる』(集英社)に同時連載しています。
http://subaru.shueisha.co.jp/

発行 impala : 11:21 PM | コメント (1)